2. バウハウスの歴史(前編):理想の胎動と、機能主義への転換(1919年〜1925年)
バウハウスの歴史の前半は、第一次世界大戦後の混乱期における「新しい人間」と「新しい生活」の模索、そして教育方針をめぐる内部的な葛藤と、外部からの政治的圧力との戦いの記録です。
2-1. ワイマールでの船出:マニフェストに込められた情熱(1919年)
1919年4月1日、ヴァルター・グロピウスは「国立バウハウス・ワイマール」を設立しました。当時のドイツは敗戦による社会不安の真っ只中にありましたが、グロピウスが発表した「バウハウス宣言」は、そうした絶望を切り裂くような強い理想主義に満ちていました。
グロピウスが目指したのは、芸術が特権階級の「サロン」に閉じ込められ、生活から遊離している現状を打破することでした。宣言の中で彼が強調したのは、「芸術家と手工作者の間に本質的な違いはない」という点です。彼は、すべての芸術家が一度「手仕事」に立ち返り、実際の素材や構造を学ぶことで、未来の理想的な建築(大聖堂のような総合芸術)を共に創り上げる共同体を構想したのです。
この時期、バウハウスに集まった学生たちは、戦地から復員してきた若者が多く、古い社会秩序を否定し、新しい世界の構築を切望していました。彼らにとってバウハウスは、単なる学校ではなく、一種のユートピア的な共同体として機能していました。
2-2. ヨハネス・イッテンの教育と「マズダズナン教」の波紋
初期バウハウスの教育において、最も強烈な個性を放っていたのがヨハネス・イッテンです。彼が考案した「予備課程」は、現在の美術教育の基礎となりましたが、当時の実態は極めて異例なものでした。
イッテンは、学生が過去に受けてきた写実教育を「毒」として排し、感覚をゼロに戻すことを求めました。彼の授業は、深呼吸や瞑想、筋肉の緊張と緩和を繰り返す体操から始まりました。「素材の魂を感じる」ために、暗闇で素材に触れさせたり、植物の成長のリズムを抽象的な線で描かせたりといった、直感重視のトレーニングが行われました。
しかし、イッテンの教育は次第に「マズダズナン教1」という神秘主義的な思想に深く結びついていきました。彼は校内で法衣のような衣服をまとい、学生たちに菜食主義、断食、そして極端な体内浄化を推奨しました。バウハウスの食堂からは肉やニンニクが消え、学生たちは特定の呼吸法を実践しながら、独特の精神世界を形成していきました。グロピウスは、バウハウスを「社会に開かれた、工業化時代に対応する学校」にしたいと考えていたため、この内向的で閉鎖的なイッテンの路線は、次第に学校内で深刻な対立を生むことになります。グロピウスは、イッテンの個人的なカリスマによる「閉ざされた修道院」のような組織化を強く危惧していました。
2-3. 画家たちの理論:パウル・クレーとヴァシリー・カンディンスキー
イッテンとの対立が深まる中、バウハウスにはパウル・クレーやヴァシリー・カンディンスキーといった、20世紀美術を代表する巨匠たちが加わりました。彼らは「マイスター」として、それぞれの工房を指導しましたが、その教育内容もまた非常に理論的で緻密なものでした。
- パウル・クレーは、自然界の形がどのように生成されるかというプロセスを分析しました。彼は、静止した「形」ではなく、それが生まれる「動き(プロセス)」に注目し、点から線へ、線から面へとエネルギーが移行する様を数学的に解き明かそうとしました。
- ヴァシリー・カンディンスキーは、色彩と形の心理的な相関関係を研究しました。「黄色は鋭い三角形」「青は沈み込む円」「赤は安定した正方形」といった独自の対応関係に基づき、構成要素が人間の精神に与える影響を分析しました。
これらの理論は、後にバウハウスのデザインが単なる「流行」ではなく、厳密な心理学的・数学的根拠に基づいた「普遍的な言語」へと進化していくための重要な礎となりました。
2-4. 「新しい女(ノイエ・フラウ)」:女性学生たちの苦闘と織物工房
バウハウスは設立当初から「男女の区別なく、才能ある者を受け入れる」という先進的な方針を掲げていました。これに惹かれ、多くの意欲的な女性たちがバウハウスの門を叩きました。しかし、現実には性別による役割分担の壁が存在していました。
グロピウスは、女性学生が増えすぎることで学校の社会的評価が下がることを恐れ、彼女たちを主に「織物工房」へと誘導しました。当初、織物は「女性的な手芸」と軽視される傾向にありましたが、ガンタ・シュテルツルを中心とした女性たちは、これを「工業的なテキスタイルデザイン」へと進化させました。彼女たちは最新の化学繊維を研究し、防音性や耐久性に優れた画期的な布地を次々と生み出しました。最終的に織物工房は、バウハウスの中で最も経済的に成功し、学校の運営を支える重要な収益源となったのです。これは、芸術的な野心と現実的な生産性を両立させた、バウハウス初期における最も中立的に評価されるべき成功例の一つです。
2-5. 1923年の大転換:ラズロ・モホリ=ナギと「バウハウス展」
1922年、バウハウスに大きな衝撃が走ります。オランダの芸術運動「デ・ステイル」の理論家テオ・ファン・ドゥースブルフがワイマールを訪れ、バウハウスの表現主義的な傾向を「感傷的すぎる」と激しく批判したのです。これに触発された学生たちや、グロピウス自身も、時代が求める「機械生産」への適応を模索し始めました。
1923年、グロピウスはついにイッテンを去らせ、ハンガリー出身のラズロ・モホリ=ナギを招きました。モホリ=ナギは「光、色彩、運動」を科学的に捉える視点を持っていました。彼によってバウハウスは「工業化の美学」へと舵を切ります。
同年に開催された「バウハウス展」は、この方針転換を世に問うための巨大なプロジェクトでした。この展覧会のために、バウハウス初の実験住宅「ハウス・アム・ホルン」が建設されました。

この家は、装飾を完全に排除し、家事の動線を極限まで効率化した「住むための機械」の原型でした。各工房は、この住宅のために特別な家具や什器を製作しました。
- 金属工房:マリアンネ・ブラントによる、機能性を極めた灰皿やティーセット。
- 木工工房:マルセル・ブロイヤーによる、後の大量生産品を予感させる機能的な木製家具。 当時、このあまりに無機質な建物は、市民から「コーヒーを淹れるための機械のようだ」と揶揄されましたが、これこそが、バウハウスが「手仕事による一点物」から「量産可能なプロトタイプ」へと明確に移行したことを示す歴史的事実でした。
2-6. 政治的圧力とワイマール期の終焉
バウハウスの活動は、保守的な市民やテューリンゲン州議会の右派勢力から「非ドイツ的」「文化的なボリシェヴィズム」であるとして猛烈な攻撃を受けました。特に、学生たちの男女共学での自由な生活態度や、伝統的な装飾を否定するデザインは、保守層にとって伝統破壊の象徴に見えたのです。
州議会はバウハウスへの予算を大幅に削減し、1924年12月、バウハウスの教員一同は「自発的な解散」を発表しました。この事態に、ドイツ中の都市が誘致に乗り出しましたが、最終的に彼らが選んだのは、近代産業が発展していたデッサウ市でした。1925年3月31日、ワイマールのバウハウスは閉鎖されました。しかし、この移転こそが、バウハウスがその理想を現実の建築やプロダクトとして結実させるための、重要なターニングポイントとなったのです。
