バウハウスとは──機能主義の誕生と近代デザインの原点

デザイン

3. 歴史(後編):デッサウの黄金期、科学的建築への傾倒、そして終焉(1925年〜1933年)

1925年、ワイマールを追われたバウハウスが新天地として選んだのは、アンハルト州の工業都市デッサウでした。ここからの8年間は、バウハウスが最も華々しい成果を上げ、同時に最も過酷な政治的荒波に揉まれた時期です。学校は「国立」からデッサウ市の「市立」へと組織を変え、より実験的で、より社会実装に近い第2のステージへと突入しました。

3-1. デッサウ校舎の竣工:インターナショナル・スタイルの確立

デッサウへの移転において、最も象徴的な出来事は、ヴァルター・グロピウス設計による新校舎の建設です。1926年に完成したこの建物は、それ自体がバウハウスの理念を体現する「巨大なプロトタイプ」でした。

この建築の最大の特徴は、機能ごとに分離された非対称な構成と、壁一面を覆うガラス窓「カーテンウォール」にあります。工房棟、学生寮、食堂、事務室が、それぞれの目的に応じた形を持ちながら、有機的に連結されていました。 また、校舎から少し離れた森の中には、マイスターたちが住むための「マイスターハウス(教員住宅)」が建設されました。ここでは、グロピウス、カンディンスキー、クレー、モホリ=ナギといった巨匠たちが隣り合って暮らし、最新のバウハウス家具に囲まれた「モダンな生活」を実践しました。しかし、このマイスターハウスでの優雅な生活は、後に「民衆の困窮を無視した特権階級の暮らし」として、内部からの批判の対象にもなっていきます。

3-2. 工房の「産業化」と経済的自立の模索

デッサウ期のバウハウスは、教育機関であると同時に、一種の「デザイン事務所」としても機能し始めました。学校の運営費を確保するため、バウハウスは自らのデザインを企業にライセンス販売する体制を整えます。

  • 金属工房の躍進:マリアンネ・ブラントらが設計した照明器具は、ライプツィヒの見本市で高い評価を受け、実際に多くの家庭やオフィスに導入されました。
  • スチールパイプ家具の誕生:マルセル・ブロイヤーは、自転車のハンドルから着想を得た「スチールパイプ椅子」を完成させました。これは「伝統的な木製家具」という概念を完全に破壊し、オフィスや公共施設の風景を一変させる革命となりました。
  • 壁紙工房の成功:最も意外な収益源となったのは「壁紙」でした。それまでのデコラティブな壁紙ではなく、控えめな質感と幾何学的なパターンを持つバウハウスの壁紙は、一般家庭に爆発的に普及し、学校に多額のロイヤリティをもたらしました。

3-3. ハンネス・マイヤーの就任と「生活の科学化」(1928年〜1930年)

1928年、創設者のグロピウスが「個人の建築実務に専念したい」という理由で校長を辞任します。後任に指名されたのは、スイス出身の建築家ハンネス・マイヤーでした。マイヤーの就任により、バウハウスはそれまでの「芸術的な色彩」を剥ぎ取られ、徹底した「科学的・社会主義的アプローチ」へと舵を切ります。

マイヤーは、グロピウスが重視した「芸術家の直感」を否定し、「民衆の必要を、贅沢品よりも先に(Volksbedarf statt Luxusbedarf)」というスローガンを掲げました。 彼の教育方針は、日照、風向、動線、建設コストといった膨大なデータを分析し、そこから論理的に建築の形を導き出すというものでした。学生たちは、もはやキャンバスに向かうのではなく、複雑な計算式と社会調査の結果と向き合うことになります。

この時期、バウハウスには「建築学科」が正式に設置され、ベルリン近郊の「ベルナウ・ドイツ労働組合連合(ADGB)連邦学校」などの大規模プロジェクトを手がけました。しかし、マイヤーの公然たる社会主義的思想は、デッサウ市当局や保守派からの警戒を強め、1930年、政治的混乱を理由に彼は解任されます。

3-4. ミース・ファン・デル・ローエと「建築への純化」(1930年〜1932年)

混乱を収拾するために3代目校長に招かれたのは、近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエでした。ミースの着任により、バウハウスは再び「美学的・技術的な完璧さ」を追求する組織へと戻ります。

ミースは学校内の政治活動を厳禁し、学生たちに「純粋な造形」への没頭を求めました。彼の教育は、図面の一線、煉瓦の一つの積み方に至るまでの徹底した「美の規律」を叩き込むものでした。 しかし、この時期のドイツ社会は、世界恐慌の余波とナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の台頭により、もはや「教育の自由」を許容する余裕を失っていました。1932年、デッサウ市議会で第一党となったナチスは、「文化的な汚染」であるとしてバウハウスへの予算を打ち切り、校舎の閉鎖を強行しました。

3-5. ベルリンでの最後の抵抗と解散(1932年〜1933年)

デッサウを追われたミースは、諦めることなく、ベルリンのシュテグリッツ地区にあった古い電話工場を自費で借り受け、私立学校としてバウハウスを継続させました。これが、バウハウス最後の10ヶ月間、いわゆる「ベルリン期」です。

しかし、1933年1月にヒトラーが政権を握ると、バウハウスへの弾圧は決定的なものとなります。4月、ゲシュタポ(秘密警察)がベルリンのバウハウスを包囲し、家宅捜索を行いました。「非ドイツ的」「共産主義的」というレッテルを貼られた学校に対し、ナチスは再開の条件として、ナチス思想を信奉する教員の採用や、リベラルなカリキュラムの全面変更を要求しました。

ミースとマイスターたちは、数ヶ月にわたる交渉と苦悩の末、「ナチスの道具として存続するくらいなら、自らの手で幕を引くべきだ」と判断しました。1933年7月20日、バウハウスは正式に解散を宣言し、その14年間の幕を閉じました。

3-6. 世界への拡散:ナチスの誤算とデザインのグローバル化

ナチスはバウハウスを物理的に破壊しましたが、その思想を抹殺することには失敗しました。むしろ、閉校によって居場所を失ったマイスターや学生たちは、世界各地へ亡命し、バウハウスの種を地球規模でまき散らすことになったのです。

  • アメリカ:グロピウスはハーバード大学、ミースはイリノイ工科大学の建築学科長に就任し、アメリカの近代建築(摩天楼のデザインなど)の基礎を作りました。モホリ=ナギはシカゴに「ニュー・バウハウス」を設立しました。
  • イスラエル:亡命した多くのユダヤ系建築家により、テルアビブの街には4,000軒を超えるバウハウス様式の建物が並び、現在は「白い街」として世界遺産に登録されています。
  • 日本:山脇巌・道子夫妻がベルリン期のバウハウスで学び、帰国後に日本のデザイン教育やモダン建築の普及に多大な貢献を果たしました。

バウハウスの歴史とは、一つの学校が潰された物語ではありません。ナチスの弾圧という強風によって、ドイツという一地方の実験が、全世界の共通言語(インターナショナル・スタイル)へと昇華されていった、壮大な拡散の物語なのです。

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